按摩の反対を受けたフェイシャル

フェイシャルエステ、美顔術、あるいは単にフェイシャルと呼ばれる技術は理美容サロンのメニューとして定着しています。この技術を最初に導入したのは芝山兼太郎さん(明治6年/1873~昭和4年/1929)と、いわれています。

芝山さんは、日本の西洋理髪師の祖の一人、松本定吉さんから理髪の技術を学び、明治28年(1895)に横浜・山下町103番地に「日之出軒」を開業。2年後にはオリエンタル・ホテル前に、外国人相手の「パレス・トイレット・サロン」(山下町31番地)を開き、男性客だけでなく、「婦人部」を設けています。

芝山さんはアメリカ人医師のドクター・W・キャンブルーさんから「ハイジェニック・フェイシャル・カルチャー」というマッサージ技法を習得し、さっそく婦人部で「フェイシャル・マッサージ」として営業メニューに加えます。ところが、この「ファイシャル・マッサージ」が地元のマッサージ組合から業権侵害だとして猛烈な抗議を受けます。

マッサージ組合、つまり按摩さんの業者でつくる組合です。
按摩は、江戸時代は座頭に許された仕事でした。座頭とは盲目の人のことですが、江戸時代は、いまとは比べものにならないほど盲目の人が多くいました。彼らを救済するために、幕府は盲目の人にしか許可しない仕事を決めていました。健常者の就業を制限することで、盲目の人の生活を維持する狙いからです。

明治になって職業は自由になったものの、江戸時代からの慣習は色濃く残っていて、マッサージと名称は変わっても按摩を稼業としる盲人は多くいました。本来、盲人の仕事であるマッサージを健常者が堂々と行うことに危機感を持ち、職業と生活を守るために理髪師の行う「ファイシャル・マッサージ」に対し、反対運動を繰り広げたのです。

これに対し、芝山さんは「ファイシャル・マッサージ」は、血行を促進させ生理機能を高めることを目的にしたマッサージで、按摩とは違うことを解いて理解を求めます。軽擦法や軽打法、揉捻法など按摩と同じ手技があり、なかなか理解してもらえませんでしたが、芝山さんお努力が実を結び和解します。

このような経緯があって芝山さんは、「ファイシャル・マッサージ」を「美顔術」に名称変更します。また、これを契機に芝山さんは何かと按摩の人たちに協力するようになったといいます。
昭和4年(1929)、芝山さんが亡くなると、そのの葬儀に大勢の盲目の人が弔問に参列し、芝山さんの遺徳を偲んだと伝わっています。

丘圭・著