「三把刀」の理髪師

「三把刀」(さんばとう)は刃物を使う、理髪師、料理人、仕立屋の三職のことで、華僑が多く従業した仕事です。

『広辞苑』にないので、『Wikipedia』からの引用になりますが、「この三種の職業は人間の基本的な必要に対応することから、いかなる国や土地でも、またどんな時代でも安定した需要があり、かつ簡単な道具で開業できる食いはぐれの無い安定した職業技術である」とあります。

幕末の横浜に西洋人とともに、その使用人として雇われた中国人が多く来日し、やがて南京街を形成します。いまの中華街です。幕末は横浜新田といわれた埋立地でした。

仕立て屋、つまり洋裁業は、当時の洋装化の普及とともに、横浜開港直後の安政7年(1860)にオランダ人が日本初の洋服店が開業。その4年後の元治元年(1864)に山下居留地147番地に香港出身の譚有発さんという華僑が、「Cock Eye」(コック・アイ)という英国式テーラーを開業しています。

中国人による理髪店の開業は、横浜中華街の公式サイトによると、明治2年(1869年)です(同サイト「横浜中華街 はじまり語り、なるほど話」)。「49番地と136番地に「Ah Loon」という中国人の理髪店があった記録が残っています」と、記述されています。

明治2年といえば、小倉虎吉さんが日本人初の理髪店を開業した年です。虎吉さんの店は山下居留地148番地で、前述の華僑のテーラーに隣接した地番になります。
横浜中華街の公式サイトでは、華僑の洋服店はその後増えて、大正7年(1918)には40店舗近くが軒を並べた一方、理髪店は明治43年ごろ10店舗前後が営業していた、とその違いを紹介しています。

明治32年(1899年)居留地が廃止され、居留地以外での雑居が可能になります。政府は日本人の仕事が奪われるのを防ぐため、外国人の就労できる職種を規制します。技術を持たないを外国人の労働は規制を受け、「三把刀」に代表される技能職の就業は認めます。「三把刀」のほかに、印刷工、ピアノ職人、西洋家具職人、洋館の建築技術者ら、腕のある華僑は在留を続けました。

外国人の国内雑居が認められて120年が経ちます。この間、関東大震災、昭和20年5月29日の横浜大空襲で、華僑も被害を受け多くの人が亡くなっています。また多くの華僑が中華街を離れています。
近年では2011年の東日本大震災による原発事故を受けて、横浜中華街の多くの華僑が帰国しましたが、安全が確認され、元の活況を呈しています。

この120年の間に社会も大きく変わりました。21世紀のいま、中華街で繁盛しているのは飲食業です。他の仕事は仕事そのものが役割を終えたか、日本人にとって代わられてしまいました。華僑のテーラーは戦後もありましたが、理髪店は詳細は不明なものの、あったとしても数は極めて少なかったと思われます。

「三把刀」のうち、仕立て屋は既製服が普及したいまは影が薄くなってしまいましたが、料理人と理美容師は、21世紀のいまも健在です。「いかなる国や土地でも、またどんな時代でも安定した需要があり、かつ簡単な道具で開業できる食いはぐれの無い安定した職業」であり続けています。

丘圭・著

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