鎌倉時代末には夜は露頂に

烏帽子は戦国時代後期になるまで、成年男子が必ず被るものとされ、この風習が廃れたことが一つの理由となって、江戸時代に月代の風習が広まったといわれています。

烏帽子の装着は平安時代からあった風習で、殿上人は高髷に結い上げ、式正のときは冠、日常は高烏帽子を被っていました。烏帽子なしは男子にとって大変な恥とされ、夜、寝るときも烏帽子を被って寝ていました。
昼夜にわたる烏帽子必装の風習でしたが、鎌倉時代後期ごろから夜、寝るときは露頂で過ごすこともあったようです。

14世紀初めに描かれた『春日権現験記』という絵巻物があります。その中に、男女が一つの褥で眠っている絵があります(第一巻・竹林殿の普請の場面。国立国会図書館デジタルコレクションより)。露頂姿で眠ってます。しかも月代姿です。

『春日権現験記』は、藤原一族の氏神である春日権現の霊験を描いた絵巻で、1309年の作とされています。ここに描かれた絵が当時の貴族風俗を実写しているとするなら、鎌倉時代後期には夜の烏帽子装着の風習は薄れ、しかも月代していたことになります。

『春日権現験記』の少し前に描かれた『小柴垣草紙』には夜も烏帽子を装着して男女の睦ごとに励んでいる貴族が描かれています。この草紙は13世紀後期の作とされています。『春日権現験記』とは四半世紀ぐらいしか離れていません。この間に夜の烏帽子装着の風習がなくなってしまったのか? そんなことは考えられません。

風俗は特別な事情がない限り緩やかに時間をかけて変わっっていくものです。おそらく14世紀初頭ごろから夜の烏帽子装着をしない男子が現れ、その風習が貴族の社会に徐々に広まっていったのだと思われます。

そして16世紀の戦国時代。世の中は武家中心の社会に変わっています。このころには夜の烏帽子装着の風習はなくなり、さらに武家は昼間も烏帽子を着けなくなっていったのです。
武士の間では露頂が広まり、月代に丁髷姿が日常の風習になりました。
しかし烏帽子装着の風習が消えてしまったわけではありません。江戸時代を通して、式正の場には武士は折烏帽子を装着して臨んでいます。

殿上人はというと、室町時代から戦国時代まで約400年は宮廷の風習や儀式はすっかり廃れてしまいました。江戸時代になって、徳川幕府の援助によって宮廷文化は復活し、殿上人は式正のときは冠、普段は高烏帽子姿に戻りましたが、400年のブランクがあっては昔の伝統がそのまま復活できるわけはなく、江戸時代の宮廷風俗として復活したのでした。

ところで、『春日権現験記』にある月代姿の貴人、この絵が正しければ一部の殿上人は冠、烏帽子の下は月代をしていたことになります。この時代、すでに武士は合戦のときなど月代にしていましたが、けっしきという大型の毛抜きで頭髪を抜いて月代にしていました。殿上人の月代はおそらく剃刀で剃って作ってだと思います。苦痛に耐えられるだけの根性はなかったと思うからです。そして、なぜ月代にしたというと、冠や烏帽子から前髪がはみ出るのを嫌ったから、つまり美的な観点から月代にしたではないかと推測します。

丘圭・著

*史料『春日権現験記』(かすがごんげんげんき)。
藤原氏の氏神である春日神(春日権現)の霊験を描いた鎌倉時代の絵巻物。春日権現験記絵巻、春日権現霊験記絵巻などの別名がある。