昭和14年 東京“田舎”の美容院

昭和50年から53年までの4年間、全美連の理事長を務めた石丸辰五郎さんの『美容界ひとすじ70有余年』に、戦前の東京の美容店の状況を知る一文があります。

「私と山野さん(治一、初代・山野愛子の夫)は当時まだ、東京の“田舎”だった荒川とか、足立とか赤羽とか、郡部の方を毎日歩きました。私が24歳、山野さんが32歳の頃でしたね、たしか。
そのころは、東京の中心から少し離れると、美容院といってもほとんどが髪結い処といった営業形態で、農家のおかみさんが縁側に椅子を出して細々と営業しているところが多かったですよ。おやじはお百姓さんだったり、大工さんだったり。」
昭和14年ごろの話です。

仏製の電気パーマネント機を日本に持ち帰り、ウエーブヘアの講習で当時、一世を風靡した渡部学洋さんの音頭で、戦闘機を寄付するために募金集めに奔走していたときの思い出です。

「東京の“田舎”」は遠慮しての表現と思ったのですが、時代は少し違うのですが、今和次郎さんの「考現学」の著作からして、荒川、足立、赤羽は当時、農村地帯だったようです。そこで営む美容院は髪結仕事が中心で、しかも農家のおばさんの片手間仕事だったようです。

いまでも人口の少ない農村部や漁村などでは、雨の日だけ店を開く理美容店がありますし、海の荒れた日だけ営業する理美容店があります。それと同じような営業をしていたようです。

電気パーマネントは都市部では行われ、ウエーブヘアの洋髪をする女性はいましたが、東京でも田舎はまだ日本髪、束髪が中心だったのがわかります。

石丸さんと山野さんらが懸命に集めた寄付金は6万円弱が集まり、「美容報告号」と名付けられたゼロ戦1機が国に寄贈されました。昭和15年のことです。

丘圭・著