「宝天文化」と髷文化

「江戸時代の文化は、元録文化と化政文化が知られていますが、こと髪型に限れば、明和から安永、天明にかけても一つの文化があった」と、以前書きました(*)が、ほぼ同時期の宝暦から天明にかけての文化を「宝天文化」と主張する歴史家がいらっしゃる。

明和から天明は1764年から1788年まで、宝暦は明和の一代前で「宝天文化」は1751年からになります。
「宝天文化」論は、日本近代史が専門の倉地克直元岡山大学教授が、自書『江戸の災害史』(中公新書)で紹介しています。

「宝天時代」、儒学の荻生徂徠、国学の本居宣長、蘭学、俳諧の与謝野蕪村、文人画、浮世絵、川柳・狂歌、黄表紙本や洒落本、歌舞伎、浄瑠璃などに優れた作者、作品、演者が排出していて、元禄文化、文化文政文化とは違った文化を形成した、というのです。

髷文化も同様です。
男髷は辰松風、文金風、そして各種の本多髷が登場し、女髷も結び島田、奴島田、取り上げ島田、島田兵庫、両輪、笄髷、片笄、かせ髪、竹の節などなど多彩な髷が登場します。とくに灯籠鬢などは印象的なデザインで、多くの浮世絵に取り上げられています。
元禄時代までの髷と文化文政の髷とは違った趣の髷が多数登場したのが、この時期です。

髷の歴史を簡単に紹介すると、
出雲阿国が登場した戦国末期から江戸時代初期が日本髪にとっては揺籃期の赤子、元禄時代は少年、そして宝天期は青年、文化文政に成熟期の壮年を迎えます。

男髷を含め他の多くの文化が明治維新で衰微、消滅するなか、日本髪は明治期も成熟の度を深めます。鹿鳴館の洋風志向、束髪運動もありましたが、その後は国粋主義の思想的な背景もあり日本髪が再評価されます。

日本髪に衰退の兆しがみえるのは、マルセルアイロン、パーマネントウエーブが登場し、断髪・ウエーブヘアが好まれるようになった大正末から昭和にかけてです。昭和10年ごろに国産のパーマネントウエーブ機が販売されるようになって断髪・ウエーブヘアが都市部で広がります。しかし、全国的にみれば主流は、日本髪、束髪、ひさし髪などの和髪でした。
日本髪がなくなるのは、太平洋戦争が契機になります。軍需工場などに動員された女性たちにとって和髪は不自由でした。そして戦後、コールドパーマネントウエーブの時代を迎え、女性の髪形は断髪・ウエーブ中心になります。

「宝天時代」の髷は、ユニークです。
文化文政時代は成熟して落ち着いた髷になりますが、「宝天時代」の男髷も女髷もユニークなデザインのものが多くみられます。この時期にいろいろと試行錯誤して、文化文政の成熟期につなげたのだと思います。

哲学者の九鬼周造先生は、『いきの研究』で、江戸っ子の美意識を「いき」と「野暮」という言葉で表現しています。「いき」というのはあかぬけしていて洗練されていることです。そして、その対極にあるのが「野暮」ということになります。

「野暮」というのは、決まりきったことをなんの工夫もなく決まった通りにやることですが、場合によったら「野暮」がいい場合もあります。「野暮」は否定されているわけではありません。
「いき」の反対は「気障」です。本人は洗練されたつもりでいますが、周囲の人にとっては気に障る、不快な感じを抱かせることです。

「宝天時代」の髷はユニークではありますが、ユニークすぎて「気障」の域に近い。青年期の若気の至りといったところでしょうか。

「宝天時代」、冨を手にしたのは商人と豪農らです。彼ら新興の富裕層を背景に生まれたのが「宝天文化」といえます。また、そのころまでは髷文化は上方が中心で、江戸は上方から学び、まねていましたが、「宝天時代」も末になると、江戸も独自の髷文化を持つようになります。

この時代、文化の多くはその中心を上方から江戸へと移しますが、髷文化に関しては、化粧文化も含めて、上方と江戸が並立します。江戸の「いき」はこだわりがなく、あっさりとしていることが特徴ですが、上方はこだわりがあり、装飾性が高く、濃いめの化粧が好まれます。上方と江戸、あっさりとこだわり、違ったテイストの髷文化が併存します。
わずかな違いに過ぎませんが、この違いは明治以降も引き継がれます。

戦後、そして令和のいまも日本髪などの和髪をする女性はいます。しかし、社交業の限られた女性や芸子さんだけです。

ところで、日本が世界に誇れるものをあげると、富士山と日本髪だと自信をもっていえます。日本髪は日本人の直毛を前提に、鬢付け油など日本の植生、風土、そして手先の器用な日本人だから実現した文化だからです。
世界に誇る日本髪は、過去のものになってしまいました。

丘圭・著

(*)明和から安永、天明の髪文化
http://www.kamiyui.net/?p=860