床屋株で独占営業

床屋株は亨保の改革で、江戸の都市政策の一つとして認められました、といえます。床屋株以外にも、町の自治などに関係する組合の株が認められています。

公儀から認めてもらったというより、公儀の意向で株仲間、組合として組織化された側面が強い。この改革で町火消が設立されましたが、これは町奉行だった大岡越前守によって鳶職が組織化された、といえます。

床屋株の場合は、1町に1軒の床屋が認められました。町の入り口近くにある自身番と向かい合う場所に床屋を置くのが一般的で、町に出入りする人を見張り、町の保安の役割を果たしました。これ以外にも立地する場所によって、橋の管理や、火災などの災害時に役所の書類を持ち出す役割なども負わされることもありました。

株を持っていない床屋はいくら腕がよくても営業することはできません。床屋株は、独占営業を保証するもので、そのかわりに前述の番役を負わせたのです。番役以外にも、料金についても規制されていました。
江戸のガイド本はよく、床屋賃として24文だったと紹介していますが、24文に限ったことではありません。時代が下がると28文、32文と上がりますし、地域によっては16文(佐渡)のところもあります。時代、地域によって違います。

床屋賃は、一種の公定料金といえますが、この料金で済ませていたのは武家です。町人の多くは床屋賃が安いのを知っていて、心づけを置いていったといいます。渡し船が武家は無賃で乗れたのと同じです。江戸時代、富を手にしたのは町人でしたが、支配していたのは武家でした。

亨保の改革で公許された床屋株ですが、天保の改革で解散させられます。解散したのは床屋株だけではなく、すべての株仲間が解散させられます。株の解散により江戸の町では床屋が急増し、床屋賃が急落したのは、経済の原則の通りです。

明治になって髷を結う床屋はザンギリの西洋理髪に変わり、女髪結は職業として公許されますが、理髪職も髪結職も明治10年前には早々と組合をつくっています。目的は料金の協定と組合員以外の出店規制などです。その背景にあるのは、過当競争です。

明治時代、理髪、髪結を所管していた役所は警察署です。多くは警察署の管内ごとに理髪組合、髪結組合、大正期から昭和初期にはパーマネントを行う美容組合などが設立されています。技術の研鑽などを行った組合、団体もありましたが、主目的は料金の協定と新規参入者の排除です。

理美容の仕事は、床屋、髪結のむかしから、過当競争から逃れられない仕事なようです。

丘圭・著

【参考】江戸の床屋

江戸の床屋