床屋株

床屋株が公儀により認められたのは亨保年間です。亨保の改革の一環として、床屋の株仲間のほかにも多くの職業、商売の株仲間が誕生しています。

株には、業者が株仲間を認めてほしいと願い出る願株と、公儀がなかば強制してつくる御免株がありますが、床屋株は前者です。後者には、両替商や札差をはじめ生活必需品を扱い商人の株仲間があります。

亨保6年に時の江戸町奉行・大岡忠相は96種の商人に株仲間を作るよう促していますが、このときは床屋の株仲間は結成されていません。認められたのは享和12年になります。
認めてもらうために公儀に提出したのが、「壱銭職由緒之事」です。この由緒書については何度か紹介しました。

当時、株仲間を認めてもらいたい商売や職業は多く、公儀に認めてもらうため、もっともらしい由緒書を提出しました。江戸の町には世事や歴史に詳しい知識人がいて由緒書を創作するのが生業にしていた人がいたそうです。
「壱銭職由緒之事」も由緒書の専門家によって作られたもので、後年の歴史家からは「取るに足らぬもの」と一刀両断の扱いを受けています。史実としては価値がないにしろ、藤原采女亮政之は、いまの理容業者美容業者の祖として、髪の仕事に携わる人たちの一つのアイデンテティとして価値があり、重要な存在になっています。

この書にでてくる、徳川家康の窮地を救ったとされる北小路藤七郎は藤原采女亮政之から17代目。この17代目からさらに4代後の21代目幸次郎が「壱銭職由緒之事」の提出者です。

「壱銭職由緒之事」のできがよかったせいか床屋株は公儀に認められます。というより、亨保の改革は、主に物価高騰を抑制するのを目的として改革が行われたとされていますが、これ以外にも江戸の町の自治や、社会の秩序の安定を図る目的もあり、株仲間の組織化は公儀がすすめているところでした。

床屋は1町に1床とし、営業できる床屋は株を持っていることが条件です。営業の独占権を得ると同時に、町の治安の一端を担う役割が課され、町会組織に組み込まれたのです。

床屋は、町の木戸にある自身番の向かい側に作られることが多く、不審者の侵入を見張る役も兼ねました。岡っ引きを兼業する床屋が多くいるのも納得できます。床屋以外にも風呂屋や飲食の商売人が岡っ引きに多い。

床屋が株仲間の結成を願いでた背景には、営業独占権の確保があります。享和年間には床屋は多くあり、過当競争の状態だったものと推測されます。
享和の改革が行われたあと、田沼意次の時代を迎えますが、田沼意次は積極的な財政策を行い、株仲間から冥加金を取るようになりますが、床屋の株仲間が冥加金を収めていたかは史料がなく不明です。

床屋は株仲間に加わると同時に、町会自治に組み込まれていて、職域、地域の二つの面で組織化されていました。床屋を営むには株の取得も必要でしたが、同時に床屋の鑑札も毎年払っています。床屋に関しては町会に鑑札を支払うことで、冥加金は払っていない可能性が高そうです。

「壱銭職由緒之事」を公儀に提出した北小路幸次郎なる人物が当時の床屋家業の頭的な存在だとしたら、他の組合の多くが代々世襲で頭を務めるか、有力な人物を登用して北小路を名乗らせるかするのが普通ですが、その形跡はみあたりません。その後、北小路の名は史料に登場しません。

丘圭・著

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