髪結職鑑札と辻髪結

江戸で髪結の営業が公儀より認可され、「髪結職鑑札」を受けたのは寛永17年(1640)6月という記録がいまのところ一番古い。「髪結職鑑札下附」(『大日本近世史料・諸問屋再興調』東京大学史料編纂所 編 )。

ようやく江戸の原型が形付けられたころのことで、当時の江戸の人口は推定40万人ぐらい。亨保の時代になって町人の人口は集計され、50万人ほど。これに武家や寺社の人口と合わせると100万人規模になりますが、寛永のころは亨保の半分以下だったでしょう。

鑑札がだされるくらいですから、当時すでに相当数の髪結床が江戸の町で営業していたのがうかがえます。江戸に幕府が開闢した当初は、各種の土木や建築の工事のため、多くの職人、技能者が江戸にやってきました。初期の江戸は圧倒的に男性が多い町でした。単身の男は自前で月代を剃るのが難しい。床屋の需要は多かったのは推測できます。

寛永年間は、『東京諸問屋沿革誌』などによると、「諸業諸問屋濫觴」とされています。いろいろな業種の問屋や組合仲間が結成されはじめた、とされているので、髪結職(床屋職)の組合も寛永年間に結成された可能性はあります。

実際、明暦元年(1655)に「髪結有札無札者」(鑑札を所有しているか否か)の調査が行われ(『厳有院殿御実紀』)、翌年に「辻髪結禁止」の触れが出されているのをみると、組合が公儀に働きかけて、鑑札を持たない髪結床を締め出した可能性があります。

辻髪結とは、人通りの多い辻に簡単な床を張って営業する床屋のことで、後年の出床と同じです。鑑札を得るには上納金が必要ですが、無札は無断営業です。金銭を上納した床屋はたまりません。

その後、万治元年(1658)に「髪結株一町一株」の触れ(『国史大辞典』)が出され、床屋が町内自治に組み込まれました。江戸の町の早い時期から、髪結床はなくてはならない生活サービスの仕事だったのがわかります。

ところで以前、江戸での床屋の興りは寛永のころ、と『我衣』を引いて紹介しました(*)が、ここに紹介した触れをみると、もっと古くから床屋があってもおかしくありません。徳川家康が関東に移封されて間もないころ、慶長年間にはすでにあった可能性は高い。新たな史料の出現を待ちたいものです。

丘圭・著

(*)江戸の床屋は赤羽根から

江戸の床屋は赤羽根から