髪結株 一町一株

髪結床が一つの町に一軒と定められ、いわゆる「髪結株一町一株」制となったのは万治元年(1658)8月(『武江年表』/『国史大辞典』)のことです。

それより前の寛永17年(1640)には「髪結職鑑札」が公儀より与えられており、寛永年間には髪結床の組合が成立していた可能性は高い。髪結株一町一株は、一つの町に一軒だけの髪結床を認めるもので、営業独占権です。

江戸の町数をよく八百八町といいますが、八百八町になったのは、延宝7年(1679)のことです。寛永元年には約300町だったといます。数次の天下普請を経て江戸の町は「の」の字を書くように拡大し、「髪結株一町一株」となった万治のころは500町ぐらいはあったと思われます。ちなみに江戸後期には1700町を超えています。

髪結床は営業独占権を得るとともに、町内自治の一員としてさまざまな役を担いました。立地によって担う役割は違うのですが、多くは駆けつけ役として、火災など災害があったときに、近所の町会所や奉行所などに駆けつけ、重要書類などを持ち出します。近くに橋があれば洪水時などに橋を見回ることもしました。
そのような非常時の役のほかに、町内治安のため不審者の町内侵入を見張る役は常時担っていました。

営業独占権の株を得るためには株を購入しなければなりません。株の価格は髪結株に限らず変動しました。人通りの多い辻に面した髪結床の株は高く、うらびれた町のそれは安かったのは想像できます。その株を持っていた髪結床もいましたが、少数でした。多くは町名主や大店の経営者が持っていて、腕のいい贔屓の髪結職人に店を任せていたようです。

江戸の町には多くの株仲間がありました。株仲間にはその職業を代表する株名主がいますが、髪結株に関してはいまのところ髪結株名主の史料が見当たりません。髪結床は町会という地域組織に組み込まれていた可能性が高そうです。

営業独占権のはずの髪結床株ですが、店を構えない辻髪結が横行していました。正徳3年(1713)の「髪結床辻店書上」(撰要永久録)が残っています。辻店、つまり店を構えずに髪結をする出床の調査が行われ、その結果が報告されています。

以上は、江戸の町の話です。京・大坂の上方ではまた違った形で髪結床が営業していました。大坂では、牢屋の近くにある髪結床は担当の同心らに協力していたといいます。農村部では、回り床屋が多かったのではないかと思われますし、街道筋や宿場町ではまた違った営業形態の髪結床が仕事をしていました。さらに外様大名が治める藩や親藩ではまた違っていたと思われます。

江戸時代、髪結床の営業形態はさまざまな条件、状況によって多様でした。

丘圭・著