髪結床組合

戦国大名によって広く行われた楽市楽座は、江戸時代になっても引き継がれた経済行為の原則でした。髪結床は京都では戦国末、江戸でも将軍・秀忠のころには現れた商売で、腕に自信があれば誰でも自由に月代を剃り、髷を結って商売をしていました。

江戸で規制がかかるのは、寛永17年(1640)の「髪結職鑑札」です。鑑札がなければ髪結床ができなくなりました。しかしその後、明暦元年(1655)に「髪結有札無札者」(鑑札を所有しているか否か)の調査、翌年には「辻髪結禁止」の触れが出されているところをみると、無鑑札の髪結床が横行していたのがうかがえます。

また万治元年(1658)には「髪結株一町一株」制になり、江戸の町方では一町に一軒の髪結床に限り営業できることになります。営業独占権で、楽市楽座とま真逆のものです。

ところで髪結株仲間の組合は、史料では亨保の改革で他の多くの組合ができたのと同時に髪結床の組合もつくられたことになっています。一銭職由来書を町奉行に出して、髪結職の由緒ある出自から徳川家康への貢献などが記されています。

享和以前に髪結床の組合は存在していなかったのでしょうか?
鑑札札の発札、一町一株制の導入で、鑑札を取得した髪結床、また町での営業が許された髪結床が仲間としてまとまり組合を作っていた可能性はあります。当時、町奉行から組合解散を命じる触れが何度も出されています。もちろん髪結床の組合を名指ししているわけではありませんが、多くの業者の組合が存在していたことがうかがえます。

鑑札札の発札、一町一株制の導入は組合結成を促す一面がある一方、組合解散の触れを出すのは矛盾した施政といえます。

そして享保の改革。晴れて髪結の組合は認められます。
組合認可に合わせるようにして、亨保8年(1723)には「髪結町奉行所防火」(享保撰要類集)、同20年(1735)には「髪結両番所駆付制」(諸問屋再興調)、さらに安栄6年(1777)に「髪結仲間町年寄役所出火駆付制}が出され、髪結床に対し番所などへの駆付け役が命じられます。

もちろん、これは江戸の町方の髪結床の話です。

丘圭・著