束髪と鹿鳴館

三島由紀夫の戯曲『鹿鳴館』のラストシーンで、影山伯爵夫妻が交わす会話は有名です。
「隠すのだ。たぶらかすのだ。外国人たちを。世界中を」
「世界にもこんないつわりの、恥知らずのワルツはありますまい」

劇中の影山伯爵は初代外務大臣・井上馨がモデルです。不平等条約を改正するための偽りの洋風化を暗喩に、戯曲では伯爵夫妻の偽りの感情を押し隠して踊る哀しいダンスが表現されています。

明治16年に鹿鳴館は東京・麹町に建設されます。井上馨が外務大臣になったのは同18年で、不平等条約改正を目指し洋風化をすすめました。
しかし、偽りのダンス、偽りの洋風化は、外国人をたぶらかすことはできませんでした。

イラストは、鹿鳴館で踊り、休憩している貴婦人をフランス人の漫画家(ビゴー)が描いたものですが、そこに描かれているのは、猿です。猿まねという言葉は、フランス語にもあるのでしょうか?

高校の日本史のテキストでは、鹿鳴館で行われた舞踏会には高貴な婦人が動員されたと書いてありますが、実際は鹿鳴館近くの新橋や三田、二の橋あたりの芸者や遊女らが数合わせで動員されたといいます。ビゴーさんが描いた貴婦人は彼女らだったのかもしれません。

不平等条約改正には失敗した鹿鳴館の舞踏会でしたが、洋風化政策は婦女子の服装の洋装化をうながすとともに、髪型に関しても洋風化の機運を高めます。明治18年7月に「婦人束髪会」が結成され、日本髪を悪しき旧習として排斥し、束髪を推進する運動がおこります。運動の中心となったのは、医者の渡辺鼎さんです。
婦人束髪会の設立趣意書によると、
日本髪は
・不便窮屈にして苦痛に耐えられない
・不潔汚穢にして衛生上害がある
・不経済で交際上妨げになる
の3点を主張して、盛んに日本髪を攻撃しました。

日本髪に代わる髪型として、「まがれいと」「いぎりす結び」「西洋上巻き」「西洋下げ巻き」など具体的な髪型を提唱したのが幸いしたのか、この束髪推進運動は、鹿鳴館とは違い成功します。束髪の一種、庇髪などは長く支持されています。さすがに少数ですが、いまでも社交界の女性でしている人もいます。

束髪ブームはおこりましたが、「婦人束髪会」の主張した日本髪廃絶までは至りませんでした。それどころか、明治20年代の後半になると、行き過ぎた洋風化への反動がおこります。江戸時代の文化や風習、日本古来のものが見直されます。もちろん日本髪だけのことではなく、文化全般におよぶものでした。

日本髪は戦前の昭和まで続いた日本女性の髪型文化でしたが、終戦を機に廃れます。いまでは過去の風俗です。

丘圭・著

イラストは『トバエ』(明治20年)刊