シュリーマンが見た幕末の日本髪、髷

Heinrich Schliemann ハインリッヒ・シュリーマン(1822~1890)。日本を訪れたのは41才の時。その後、考古学を学び(博士)、49才の時にトロイア遺跡を発掘した。
Heinrich Schliemann ハインリッヒ・シュリーマン(1822~1890)。日本を訪れたのは41才の時。その後、考古学を学び(博士)、49才の時にトロイア遺跡を発掘した。

シュリーマン(ドイツ)といえばトロイア遺跡を発掘した世界的な探検家として知られるが、遺跡発掘(1871年)に先立つ1865年、幕末の日本を訪れている。1865年は慶應元年で、14代将軍・徳川家茂が第二次長州征討を宣言するなど、風雲急を告げる世情だった。

シュリーマンは、インド洋から清国を経て、米国に向かう世界周遊の旅の途中、日本に寄った。滞在したのは6月からわずか1月余だったが、紀行文「シナと日本」を残している。探検家なので、どちらかというと武闘派的なイメージが強いが、この紀行文を読むと彼の才能が伺える。「シナと日本」では「日本文明論」の一考察も展開している。

その「シナと日本」に幕末のころの髪結風俗の描写があり、今回はそれを紹介します。

「額から頭頂部まで3インチ(7.6センチ)ほど剃り上げ、残りの髪は編まずにたっぷりのポマード(鬢付け油)をつけて一本の白い紐(元結)で結び、さらに2.5インチ(6.4センチ)くらい後方で折り曲げて頭頂部でふたたび紐で結び付けるのである。その結果、髷先が剃り上げた頭のちょうど中央、額から1インチ(2.5センチ)ほどのところで管の形で残ることになる」
月代と髷を紹介しているのだが、漢民族がする弁髪との違いに驚嘆している。

シュリーマンは前滞在地のシナと日本を何かと比較するのだが、清国の印象がよほど悪かったらしく、日本に非常に好意的な表現が多い。

髷の紹介では、続けて「貧しい船頭、人足から裕福な大名にいたるまで共通した髪形で、日本の男子には他の結い方はない」とある。これは誤謬だが、滞在1ヶ月余ではやむを得ない。他にも錯誤した記述が散見される。

女性の結髪については
「髪を結うときは、一重椿の実から採った濃いめのポマードをたっぷり使う。彼女たちは髪を編まなくても、素晴らしい髪型に結い上げることができる。しかし、たいがい髪を結いあうのは貧しい女たちで、多少とも裕福な者は、毎日髪結に結わせる。髪結賃は天保銭一枚である」
髪結賃はそんなに安くはないし、毎日結わせるのは遊女くらいだったろう。

髷の叙述でもポマードがでてきたが、これは鬢付け油で、鬢付け油は木蝋と椿油などの植物性油を混ぜて使う。木蝋と油の調合具合によって、固形のチックに近い状態になったり、ジュレのようなポマード状になったり、リキッド状になったりと用途に応じて使い分ける。

髪以外にも着物や履き物などの記述もあり、とくに着物については当時西洋で流行していたクリノリンと呼ばれる、鯨の髭を仕込んだ大きなスカートと対比するなど、独自の視点で捉えている。
髪形も当時西洋では頭上に船を載せた巨大な髪形があらわれるなど、18、19世紀は洋の東西を問わず、一部の階級の女性は華美に走っていたようだ。

*「シュリーマン旅行記  清国・日本」(講談社学術文庫)より引用

丘圭・著