髪結渡世 女手伝 下剃禁止令

髪結床も男、客も男。髪結床は男の領分の印象が強いのですが、「髪結妻月代剃厳禁」という町触れ(寛政11年/1799)で、髪結床の妻による月代剃りが行われていたことがわかります。この触れで女剃師がいなくなったかいうと、江戸の庶民は触れなどお構いなしです。

いっときは守るのですが、寛政の改革をすすめた松平定信さんが失脚すれば、もとに戻ってしまいます。

それから約半世紀後の1843年(天保13年)、「髪結渡世女手伝下剃禁止令」の触れが出されます(天保度御改正諸事留・旧幕引継書/国立国会図書館)。この天保13年という年は髪結床関係、女髪結関係の触れが多く出された年です。その中の一つが「髪結渡世女手伝下剃禁止令」です。

「髪結床の女手伝い人に下剃りをさせてはいけません」という内容です。寛政の触れでは髪結床の妻でしたが、天保の触れは妻に限っていません。妻以外の女性を雇って下働きをさせていたのがうかがえます。

下剃りとは、本剃りの前にあらかじめ、ざっと剃っておくことこと、です。月代は、3日に一度はあたらないと髪が伸びて見苦しい。髪結床の客はたいていは3日間隔ぐらいで訪れ、剃ってもらっていましたが、なかには無精をして伸ばした状態で来る客もいます。そんな髪の伸びた客の月代をざっと剃ったのが女手伝い人だったのでしょう。

いまでもシェービングは毛流に沿って順剃りをしたあと、逆剃りをしてつるつるの肌にすることがありますが、女手伝い人の下剃りは順剃り程度の月代剃りをしたようです。
このような触れが出されるくらいですから、江戸の町の髪結床には少なからず女手伝い人がいたと考えられます。

天保13年に女性の髷を結う女髪結が追補されていますが、江戸の町には多くの女髪結がいました。女髪結のなかには、髪結床に手伝人として仮の籍を置いて、得意先の商家や遊郭に出向いて髪結稼業をしていたかもしれません。

一町一株の髪結株ですが、髪結床の番屋で稼業をするだけでなく、近くに橋詰や広小路があればそこの出床、また商家や遊郭楼があれば出向いて髷を結うことも株の中に含まれています。やり手の髪結床が、公儀から認められていない女髪結に軒を貸していた可能性は十分考えられます。

この触れが出される2ヶ月ほど前に女髪結の追補があり、この触れで女髪結の根絶を狙ったのかもしれません。

丘圭・著

髪結妻 月代剃厳禁

髪結妻 月代剃厳禁