髪結床の組合仲間・考

享保の改革で認められた髪結床の組合仲間ですが、その組織など詳細についてはほとんど不明です。理由は、半世紀ほど前の万治元年(1658)に「髪結株一町一株」制となり、すでに町の自治組織に組み込まれたことと関係があります。

組合仲間が認められたことで、町内の自治と職域と二重に町奉行の采配に関わることになります。

組合仲間は金融や流通などに関わる業者が結んでいます。業者が新規参入者を防ぎ利益を独占するために自ら結成することもありますし、公儀が価格統制や金融支配のために結ばせることもあります。たいていの組合仲間は代表者となる組合名主の頭がいます。互選で選ぶことも、仲間内で有力な業者がなる場合もあります。

これとは別に町年寄りのように代々・世襲される場合もあります。また名前が襲名される場合もあります。穢多身分の弾左衛門は、同身分の実力者が弾左衛門を名乗るのがならわしです。

髪結床の組合仲間を認めてもらうために『壱銭職由緒之事』(一銭職由来書)が町奉行に出されますが、この由来書の作成者と思われる北小路藤幸次郎さんが、当時の髪結床の業界の有力者だった可能性があります。なにしろ21代前の人物が髪結職の祖といわれる藤原采女亮政之さんで、4代前の北小路藤七郎は神君・家康公の窮地を救った人物とされています。髪結床の名門的な存在なのが、北小路家です。

北小路藤幸次郎さんが実在したのなら、享保の改革以降、代々・北小路家が髪結組合仲間の名主的な存在として君臨していてもおかしくありません。しかし、その後北小路家の名は出てきません。やはり『壱銭職由緒之事』は怪しい。

町の自治を担う町名主は、江戸の町に古くからいました。江戸幕府開府前からの草わけ名主、寛永期ごろまでの古町名主、さらに平名主、門前名主などです。「髪結株一町一株」制になったときは、町の髪結床は町名主の配下になったと思われます。

髪結株を買えるのは、名主や地主クラスです。髪結床は株主に雇われて仕事をし、町役をしていました。江戸の町は、南北の町奉行を頂点に、三家ある町年寄り、その下に町名主がいて、町内自治を運営していました。
亨保前の正徳期(1712-1715)に町名主の組合が成立し、亨保のころには17組合に、さらに23組合に増えます。この町名主の組合が行政区になり、江戸の町の自治が運営されます。髪結床の組合仲間も町名主組合の地域に合わせて、まとまっていた可能性が高い。

『内藤新宿髪結仲間取極』(安永8年/1779)の町触れに見られるように、内藤新宿にあるいくつかの町の髪結床がまとまって、 内藤新宿髪結仲間として組合仲間をつくっていたようです。

前述の穢多頭の弾左衛門は、江戸市中に限らず、関八州までその支配が及んだといわれていますが、髪結床の組合仲間は広域な組織ではなく、町名主組合に準じた規模の組合組織と考えるのが妥当です。

丘圭・著

http://www.kamiyui.net/?p=123

髪結床の組合仲間・考」への1件のフィードバック

コメントは停止中です。