髪結床の料金

江戸のガイド本のなかに、髪結床の料金を24銭と紹介している本があります。間違いではありませんが、大正解というわけではありません。髪結賃は場所、時代によって違うからです。

髪結床が職業となった戦国末期から江戸時代初期にかけて一銭剃り、あるいは一文剃りともいいます。一銭剃り、一文剃りが髪結職の呼称でもありました。
髪結職の黎明期は一銭が料金でした。月代剃りの剃刀、砥石、元結の紐があれば、人通りの多い辻に床を張って簡単にできた仕事でした。料金もそれに見合っていました。

髪結賃は徐々に上がり、亨保の改革で髪結床の組合仲間が認められたときに24銭になったのだと思われます。江戸の町奉行の采配による可能性が高い。

江戸時代の社会は、武士が支配していました。魚河岸で魚を扱う商人は、江戸城に無料で魚を収め、残った魚を売ってました。河川の渡し船は武家は無料で乗船しました。江戸の町の髪結床も武家は無料だったという説があります。独占的な営業権を認める代わりに武家は無料で利用できました。

髪結賃に関してはその都度、決められた料金を払っている、と記した武士の日記が残っています。渡し船のように、大勢のなかに混じって、ついでに乗船するのと違い、手間暇がかかるのを察して髪結賃を払っていたのかもしれません。
髪結賃24銭、一種の最低料金の性格もあり、町人は24銭にプラスして心づけを置いておく人が多くいた、といいます。もちろん裏店に住む貧しい人は24銭ですませていたのでしょう。

亨保のころ24銭だった髪結賃は、寛政のころ28銭、天保のころには32銭と諸物価の上昇に合わせて上がっていきました。これは江戸の話で、同じ幕領でも佐渡奉行采配の佐渡ではこれより安い髪結賃でした。佐渡の場合は髪結床の組合仲間が新規開業者を排除しており、その影響があったのかもしれません。大坂、京は、江戸とはまた違った髪結賃だったと思われます。

譜代大名の藩はだいたい幕領の動向に沿っていますが、外様大名が治める藩はまた違った形で料金や営業権があったと考えられます。
将軍家の親戚筋にあたる親藩は、本家の意向などを無視する傾向が強く、髪結床も違った形で運営されていたと思われます。

亨保の時代以降はおおよその料金の動きは推測できるのですが、亨保以前の料金の変動についてはよくわかりません。
髪結賃24銭は、正確には、髪結床の料金24銭もあった、が正しい。

丘圭・著