髪結床と湯屋

髪結床と湯屋は江戸の町になくてはならない存在で、一町一株として独占的な営業が認められていました。一つの町に一軒の髪結床と湯屋です。

湯屋のほうが先に一町一株になりましたが、髪結床は万治元年(1658)8月に一町一株になります。明暦の大火の翌年です。大火で江戸の町の大半が焼失し、新たな区画割りがなされ、再開発されているときです。町内自治が再興され、髪結床は一町一株とすることによって町内自治に組み込まれた。

株を所有したのは町名主や地主、家持ちなどの有力町人です。髪結床は町内の出入り口にある自身番と路を挟んで対面する場所か、自身番の近くに建てられることが多い。自身番は不審者の侵入を見張ることなど町内の警らの役割を担っていましたが、髪結床は自身番を補佐する役目もありました。

株を所有する町の有力者は髪結床の親方に店を任せ、髪結床を経営します。株があれば、髪結床の経営はもちろんのこと、近くの橋詰や広小路などに出床を出すこともできます。また、近隣の大店などに出向いて仕事をする廻り床屋も、仕切っていました。

株を所有する町人は、腕がよくて才覚のある髪結床の親方を見つけ出すのが、重要な仕事だったと思われます。親方は何人もの髪結職人を雇い、内床、出床、廻り床屋に配置するなどして采配していました。また流行りの髷を結い、職人たちに教えて、多くの客を集めました。

一町一株の髪結床で働くのは、親方をはじめ髪結鑑札を持っている髪結床の職人です。彼ら以外にも丁稚奉公の見習いがいて下働きなどをしていました。

湯屋の株は、株そのものが取引され、500両、1000両で売買されたという記録が残っています。床屋株も同様だったと思われます。才覚のある親方に経営を任せ、手広く営業している髪結床の株は高値で取引されたはずです。

腕がよくて才覚のある親方のなかには自ら株を買い取った人もいたでしょう。こうなれば立派な町人です。
吉原で豪遊した客のなかに髪結床がいますが、髪結仕事はいまもむかしも腕と才覚次第です。

一町一株、一つの町に一軒の髪結床と湯屋です。ですが、湯屋は実際には三町に一軒くらいしかありませんでした。客が少なければ、経営が維持できません。髪結床については史料を持ち合わせていませんが、厳密には一町に一軒ではなかったと思われます。