一町一株の髪結株といっても

前回、一町一株として独占的な営業が認められていた髪結床と湯屋について記述しましたが、実際にはきっちりと一町一株だったわけではありません。湯屋は三町に一軒ほど、髪結床も湯屋ほどでないにしろ、町数より少ない軒数でした。

よく江戸の街数を八百八町といいますが、これは延宝7年(1679)ころの町数で、徐々に増え天保14年(1843)には1719町と倍増しています。髪結床が一町一株になった万治元年(1658)ごろは700町前後だったと思われます。

一町一株で独占的な営業が認められた髪結床ですが、なかには隠れてこっそり仕事をする髪結が少なからずいたようです。町奉行、町年寄はたびたび忍髪結、辻髪結の調査をしています。
忍髪結は髪結鑑札を持たずに仕事をしている髪結です。辻髪結、辻床は人通りのある辻に鬢盥を持ち出して勝手に仕事をしていました。廻り床屋も株を所有する髪結床の親方が仕切って仕事をするのが建前でしたが、独自に得意先を開拓し、仕事をしている髪結床は多かった。

髪結鑑札を得るには鑑札料を払います。おそらく髪結床の組合仲間が鑑札料を集めて町奉行に収めていたもと思われます。組合ができる亨保以前は、町名主が徴収し、町年寄、奉行へと上納されたと思います。

忍髪結は鑑札料を払わずに、辻床は町役もせずに仕事をしていたわけです。これでは正規に鑑札を得て、町役を担った上で髪結の仕事をしている髪結床が文句をいうのもわかります。いまでいうなら税金を払わずに儲け仕事をしているようなものです。

辻髪結の禁止の触れは明暦2年(1656)に出されていますし、忍髪結の禁も出されていますが、追補され、仕置きされたという史料は知りません。おそらく注意レベルの説諭や指導程度で終わったのでしょう。そして禁令の触れから時間が経つと、また闇営業をはじめる、そんなことの繰り返しだったのでしょう。

湯屋にしても初期のころは船に湯を張った湯船を岸端の住人らは利用していたといいます。また明暦の大火まで続いた湯女風呂や、料亭での湯の接待があったりと、湯屋株もいろいろと抜け道があったのが知られています。
ちなみに、風呂の湯船の語源は前述に由来するという説が有力だそうです。

江戸時代、いろいろな触れや禁令が出されますが、キリシタン禁令など一部をのぞいて、徹底しなかったものが多かったようです。また禁令そのものも朝令暮改ではありませんが、変更されるケースが多々あり、庶民もそのへんのところを見越していたようです。

丘圭・著