髪結床と町火消

髪結床が一町一株となった万治元年(1658年)は明暦の大火の翌年で、この年には火災に備えて武家地には定火消が設置され、町人地には町火消が組織されます。

日本橋と京橋の23町に組織され、各町では人足を雇い、また町内の若い衆を動員して消火活動を行うことにしました。町奉行としては23町にとどまらず、江戸の町人地に広めたかったのだと思いますが、町方の負担が大きく他の町では組織されなかったといいます。

髪結床は火災が発生したときに、奉行や町年寄、名主など行政を行っている屋敷に駆け付け、書類を持ち出す町役を担うことになりますが、一町一株になった髪結床と同年に発足した町消、髪結床と町消火の関係は浅からぬものがあります。

亨保の改革は金融、財政を中心にさまざまな改革が行われますが、時の町奉行・大岡忠相は町火消の再構築にも力を入れます。亨保改革の半世紀前に組織された町火消ですが、素人集団です。火事場で火の勢いに恐れをなして逃げてしまう火消もいて、ほとんど役にたたなかったらしい。

亨保の改革では、亨保3年(1718)に町火消組合の設置を町名主に命じます。亨保5年(1720)に江戸大火もあって、同年町火消をいろは45組に組織、また町の厄介者でもあった鳶職人を町火消として雇い入れます。町火消がいろは48組になり、大組一番から十番までに組織されたのは亨保15年(1730)になります。

亨保の改革では髪結の組合仲間が認められます。一町一株は町内自治への組入れですが、組合仲間は職域としての組織化です。この髪結組合に対しても、火事に際しての駆け付け役が課せられたと思われます。いずれにしても、髪結床と町消火の関係は浅からぬものがあります。

ところで、いろは48組の町火消、その後も組織は改変されますが、当初認められていなかった武家地での火消し、江戸城への出動など大活躍します。逆に定火消は曲輪内の出火に対応するだけになり、衰退します。

幕末になると、町火消は消火だけでなく江戸市中の警らも担当する存在になります。黒船来航、また戊辰戦争では市中警備を命じられます。町火消十番組の頭取・新門辰五郎が配下の火消人足を率いて、15代将軍・徳川慶喜の護衛していたのは有名な話です。

丘圭・著