宝天期には女髪結職が成立

松平定信によって行われた寛政の改革は、棄捐令や異学の禁、海防などとともに民政にも及びました。人足寄場、飢饉に備え社倉や義倉の設置、農村の荒廃を防ぐための人返しなどの施策です。

灯籠鬢。髷は、さえだ島田(『当世かもじ雛形』より)

寛政7年(1795)十月に出された女髪結への禁令(口達)は、背景には奢侈の禁止がありますが、女髪結をしている女性に対して、仕立て仕事や洗い張り仕事への転業をすすめるものでした。
18世紀末の江戸に何人くらいの女髪結がいたかは不明です。禁令が出るくらいですから相当数いたはずです。流行の日本髪を結うには女髪結の手を借りなければできず、すでに女髪結は江戸の町で必要とされる仕事になっていました。

18世紀中ごろから後期にかけての田沼時代は、とかく評判が悪く、歴史の教科書には賄賂が横行した悪政と評されています。しかし田沼政治が行われた明暦から天明にかけては、江戸の経済は活性化し、庶民の生活は向上した時代です。

日本髪に関しては、明暦の一時代前の宝暦あたりから急速に進展します。この時期にさまざまな小道具が開発、製造されました。小枕や各種の差し、髢などが工夫され、それらの小道具を使った髪型が創案されています。一例をあげれば、当時流行った燈籠鬢です。専門の鬢差しを使用して結いました。小道具類が発達し、使い方も難しく、全体の結い方も複雑になってくると、素人には手が負えません。

流行に敏感な遊女らがこぞって新しい髪型をしましたが、その日本髪が結えるのはプロの女髪結です。歌舞伎の世界でも女形が小道具類を使った新しい髪型を次々と登場させ、それを遊女はじめ町人のおしゃれな女性がまねをします。女髪結は、新しく登場した小道具類の使い方をいち早く習得し、流行の髪型を習っていたのだと思います。

藩邸に女髪結の出入りを禁じた藩があるくらいですから、武家の女性も女髪結に頼って、流行の日本髪を結ってもらっていたのがわかります。
宝暦から天明にかけて宝天時代・宝天期、当時の文化を宝天文化と称することがありますが、こと日本髪に関してはこの時期に大きな進展があったは間違いありません。

丘圭・著