髪結仲間の解散

天保12年(1841)に始まった天保の改革で、組合仲間、各種株仲間が解散させられます。120年ほどまえ、享保の改革で物価抑制の狙いから結成が進められた組合仲間ですが、独占的な営業がかえって物価高騰の原因の一つとして考えられたからです。

この年に江戸菱垣廻船積十組問屋が解散、翌年3月には全国の株仲間、組合仲間が解散させられ、髪結床の組合仲間も禁止になります。髪結床の組合仲間の解散にともない、駆け付け人足の町役も免除されます。当然といえば当然です。

他の流通関係や商業関係の組合仲間の解散では、物価の値下がり効果は思うようになく、逆に経済の混乱を引き起こしましたが、髪結の株仲間、組合仲間が禁止されると、髪結床は増え、髪結賃は値崩れを起こします。こと髪結に関しては天保の改革は成功したといえそうです。

髪結職人の人数や髪結床の店舗数など信頼にたる史料はありませんが、もぐりで仕事をする忍髪結が問題になっていた髪結稼業の世界です。髪結株仲間、組合仲間の解散で、髪結賃が下がったことから、相当数の髪結職が新たに参入したのは想像できます。

江戸の三大改革といえば、亨保の改革、寛政の改革、そして天保の改革ですが、亨保、寛政の両改革は経済の面では完全ではないにしろ、ある程度の成果を上げたのに対し、天保の改革はみるべき成果はありません。

解散を命じられた株仲間、組合仲間ですが、10年後の嘉永元年(1851)3月に諸問屋組合再興令が出され復活します。半年後の10月には髪結床組合も再興されています。

組合再興で、天保の改革以前の旧に復したかというと、組合仲間としての組織化は認められたものの、新規業者参入の制限などの特権は失った状態での復活でした。一町一株制はなくなり、誰でも店を構えることはできます。橋詰や広小路などでの出床、また辻床、廻り床などで髪結の仕事をするのは可能でした。

組合が再興されても、髪結床は減ることはなく、髪結賃は下がったままだった可能性が高い。
嘉永元年の髪結の組合仲間復活から、17年後(1868)明治維新を迎え、明治4年の断髪令へと続きます。

丘圭・著