髪結床の大暖簾禁止

江戸の髪結床は、人目につく大きな暖簾や、派手に飾り立てた障子で客にアピールしていました。障子に描いた絵がその髪結床の屋号にもなっていました。

海老が描いてあれば海老床、達磨なら達磨床、奴なら奴床といった具合です。
髪結床は17世紀中ごろには、一町一株となっていたので〇〇町の床屋といえばわかったはずですが、さらに障子絵の屋号と組合わせて特定していたようです。

大暖簾は一銭職由来書にも出てきますが、由来書を創作した亨保のころの髪結床の風景から発想したものと思われます。文化文政のころになると大暖簾は、歌舞伎役者から寄贈されたものが喜ばれ、それが髪結床のステータスにもなっていたようです。

ところが、大暖簾と飾り障子は天保の改革で禁止されてしまいます。
1842(天保13)年3月15日の「髪結床障子暖簾等華美飾立禁止」(天保度御改正諸事留)です。天保の改革では、数々の奢侈禁令が出されますが、その一つかと思われます。

男性の髷は宝暦から天明にかけて、「通」の人が好んでした派手な髷が現れましたが、文化文政以降は落ち着いています。ただ、髪結床にも名人、上手がいて、彼らにやってもらうには、所定の料金以外に、相当の心付けを置いていったといいます。そんな「無駄」な料金を奢侈行為と位置づけ、禁止するために前述の禁令に及んだのかもしれません。
「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」です。

丘圭・著