喜田川守貞(近世風俗志)

「近世風俗志」という書物があります。著者・喜田川守貞から「守貞謾稿」ともいいます。
喜田川守貞が天保8年(1837)から起稿した「近世風俗志」は、幕府の政治や戸籍のことから、貨幣・金融、芸能、遊興、年中行事、また家屋、布団、織物、染め物など身近なものまで多様な分野を詳細に叙述しています。髪型や髪飾りなどについてもこと細かに書かれています。
商い稼業のかたわら書いたといいますが、その原稿量は半端ではありません。

守貞さんが生きた江戸時代後期の記述については、守貞さん自身が実際に見聞したことを書いています。
守貞さんは、大阪生まれで江戸・深川に移り住み、31歳のときに北川家の継嗣になったといいます。そのためか江戸と大阪を往復していて、江戸、大阪、京都の三都の風俗は詳しく叙述されています。

江戸時代前期のことについては、文献を引用して書いています。その文献も近代風俗志の起稿よりも7年ほど前に発行された「嬉遊笑覧」から、「我衣」、「女重宝記」、「本朝世事綺談」、「貞丈雑記」など江戸時代の文献はもとより「古事談」、「日本書紀」、「衣服令」など古代のものにまで、個人の随筆から正史、実用書、有職故実書、物語に至るまで大量です。
極めつけは、「山海経」(古代)、「玉海」(南宋)、「中山伝信録」(清)といった中国で編纂された地誌関連の文献から日本についての記述も引用していることです。

守貞さん、ただ者ではありません。起稿してから約30年間にわたって書き継いでいるのも凄い。執念すら感じられます。

守貞さんには絵心もあり、多くのスケッチも残しています。また、先人の残した絵の引用もあります。これは参考になります。
髪型や髢、道具類は言葉で説明するより絵で示したほうが、理解しやすいからです。
その守貞さん、江戸後期の浮世絵や役者絵、屏風絵などについては、自分が実際に見て知っているだけに、実物とは違うと苦言を呈しています。「春画に描かれた男根と同じ」と嘆いています。
絵画史料はそのまま信用することはできません。それを承知で守貞さんは多くの絵を引用しています。

髪型風俗などに関する著作については、明治以降では三田村鳶魚や江馬務が知られています。彼らの著作には、守貞さんの「近代風俗志」からの引用が見られます。また日本画家で、江戸風俗研究家としても知られる三谷一馬も「近世風俗志」を参考にしていると思われます。

「近世風俗志」は江戸時代後期の三都の風俗については、守貞さんが実際に見聞しており、彼の目を通してですが確かなようです。けれども、江戸時代前期以前については、引用が多く検証が必要です。検証が必要といっても、政治史や事件史と違って、風俗に関する史料は限られています。従って、「おおよそ」、「アバウト」の域を出ないのが本当のところです。

また、江戸時代後期には、三都で3907町(江戸1678町、大坂614町、京都1615町)を数えたといいますが、全国には三都を含み1万町、村は63000村あったと推論されています(吉田伸之「成熟する江戸」)。1町も1村も、その人口はバラツキはありますが、平均すると400人ほどとされています。つまり、三都といっても、限られた存在でしかありません。

そんなことを前提にして、「近世風俗志」の巻之九(男扮)から巻之十二(女扮)について、「髪結ネット」で適宜、紹介したいと思います。なお、参照したのは、岩波文庫版の「近世風俗志」です。

 

喜田川守貞
文化7年(1810)~?(不詳)
大坂生。本姓は、石原。
天保8年(1837)、江戸深川に仮寓。天保11年以降、定住。砂糖を商う北側家を継嗣。大坂、江戸を往来したといいます。
近世風俗志」は天保8年の起稿。以降、約30年間にわたり書き続けた一種の事典です。全35巻(前集30巻、後集5巻)。明治になって刊行されました。
髷(男)は巻の九、髪型(女)は巻十から十二に記載されています。