近世髪結年表

◆◆◆◆◆◆◆近世髪結年表◆◆◆◆◆◆◆

◆工事中です。随時、追記します。◆

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◆安土・桃山時代
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◆天正(1573~1591)◆文禄(1592~1595)◆慶長(8年まで)年間

男子
烏帽子着装の風習が薄れ、茶筅髷が普及する。
月代の風習が広まり、毛抜きから剃刀による月代が徐々に普及する。

女子
室町時代から続く垂髪が正装。略式や普段は笄などで簡便に結髪。労働する女性は髪を上げていた。髪を止める笄の使用は平安王朝時代からの習わし。

天正18年(1590) 徳川家康、関東移封。

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◆江戸時代初期
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◆慶長(1596~1614)年間
遊女に唐輪髷が流行。
異風を好むかぶき者横行(貞享年間ごろまで)
この頃の日本の人口、1200万人程度。

慶長5年(1600) 関ヶ原の戦い

慶長8年(1603) 出雲の阿国、男装姿で京で歌舞伎踊り。徳川家康初代将軍、江戸幕府開幕。

慶長14年(1609) 江戸の人口、15万人(『日本見聞記』ロドリゴ・デ・ビベロ(スペイン人)

◆元和(1616~1623)年間
唐輪髷が兵庫髷と名を改め、遊女に流行。
根結髪の湯女、絵画に見られる。根結は男子の髻に相当し、ここから多様な日本髪が生まれる。

元和元年(1615) 大坂夏の陣、豊臣氏滅亡。

元和3年 吉原遊郭公許。

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◆江戸時代前期
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◆寛永(1624~1643)年間
月代一般化する。
このころ江戸・赤羽根村に髪結床あり(『我衣』)。
髪油にごま油使われる。
島田髷の名、みられる。

寛永6年(1629) 女歌舞伎禁止。若衆歌舞伎おこる。
寛永10年(1633) 丹前風呂流行
寛永12年(1635) 参勤交代。江戸の人口、増加。
寛永14年(1637) 島原の乱
寛永17年(1640) 江戸の髪結職に鑑札を出す(一時的なもの)。

◆正生(1644~1646)◆慶安(1648~1651)年間
十河額、唐犬額が流行る。
二つ折りの髷(通常の髷)が一般化する。

慶安元年(1648) 湯女禁止。男色禁止。

◆承応(1652~)年間
勝山髷、湯女の勝山よりおこり、遊女に結われる。

承応元年(1652) 若衆歌舞伎禁止。野郎歌舞伎おこる。

◆明暦(1655~1657)年間
丹前六法、流行る。
女髷のいちょうわげ、おさんりゅうの名みえる。

明暦元年(1655) 髪結床の調査行う(寛永17年に鑑札出すも一時的なもので、その後増加していたため)
明暦2年 湯屋200軒取り潰し。勝山退郭。
明暦3年(1657) 明暦の大火。新吉原に移転。品川遊里おこる。

◆万治(1658~1660)年間
兵庫髷、一般の婦人に結われる。

万治元年(1658) 江戸の町の髪結床、1町1軒とする(『武江年表』)。
万治2年(1659) 髪結床に鑑札、師匠は年2両、弟子は年1両の札銭を徴収。のち橋火消の番役に。

◆寛文(1661~1672)年間
吹前髪、流行る。こき元結できる(『本朝世事談綺』)。
老女の間で綿帽子流行る。

寛文2年(1662) 江戸674町
寛文4年(1664) 伽羅油、使われる(『佐夜中山集』)。旗本奴・水野十郎左衛門処刑。

◆延宝(1673~1680)年間
糸鬢頭の坊主小兵衛、このころ活躍。

延宝2年(1674) 幕府、物価統制令。
延宝7年(1679) 江戸808町といわれる(『玉露叢』)。江戸の原型できる。

◆天和(1681~1683)年間
むそう流の結髪(『天和笑委集』)。
鶴の頸骨製の笄、高級品とされる。
江戸、岡場所盛ん。

天和3年(1683) 金繍の衣服の禁止

◆貞享(1684~1687)年間
この頃、武士の食事1日3食に。
鷗ツト、きじタボなど、一般に行われ、灯籠鬢が流行るまで続く。
笄髷、遣手髷、投げ島田、大島田、中島田、下島田、高島田、角ぐりなど流行る。
櫛大型化する。銀笄、タイマイ櫛など流行る。さし櫛、盛んになる。

貞享2年(1685) 生類憐れみの令。
貞享3年(1686) 唐犬権兵衛、総角助六、放駒四郎兵衛ら町奴、処罰される。

◆元禄(1688~1703)年間
丸髷、大流行。享保のころまで続く。
笄髷、島田、やつし島田、吹上髷も行われる。
文七元結、江戸で製造。
紫帽子、女性に人気。
この頃、江戸の町方人口35万3588人。

元禄10年(1697) この頃、力士、産婆など稼業に。江戸に夜鷹(街娼)現る。
元禄15年(1702) 幕府、棄捐令で困窮武士を救済。赤穂浪士、討ち入り。

◆宝永(1704~1710)年間
撥鬢、はじまる(『我衣』)
京の葵タボ、江戸の御殿でも行われる。
このころから正徳にかけてさし櫛広まる。

宝永2年(1705) お伊勢参り大流行る、この後、たびたび流行する。
宝永4年(1707) 富士山噴火。大坂三郷の人口27万9600人。
宝永6年(1709) 新井白石、正徳の治。

◆正徳(1711~1715)年間
女性の中剃、上方にはじまり、江戸に広まる。
男髷に三つ折り髷、結われる(『我衣』)

正徳3年(1713) 奢侈禁止令。江戸933町。
正徳4年(1714) 絵島生島事件、山村座廃絶、以降3座に。

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◆江戸時代中期
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◆享保(1716~1735)年間
辰松風の髷、流行。女髷に辰松島田結われる。島田髷、細めになる。
笄髷に分化がおこり、先笄、両手笄、片手笄、丸髷などみられる。
差し櫛の風習が一般化。
櫛の価格が高騰し、安価な櫛、出回る。
両天簪、ツト(タボ)差し、期末にビードロ笄登場。
お高祖頭巾流行る。

享保元年(1716) 徳川吉宗8代将軍、享保の改革(1745まで)
享保3年(1718) お蔭参り流行る。
享保6年(1721) 江戸町方人口50万1394人(男32万人:女18万人)
享保8年(1723) 根下がり兵庫髷、吉原での流行はじまる(『百人女郎品定』)
享保12年(1727) 「壱銭職由来之書」を江戸町奉行に出し、床屋株公許される。
享保20年(1735) 江戸の髪結床の番役、橋火消から番所取付役に直る。持ち家の床屋は、町の会所を兼ねた。町内の公用をつとめ、町奉行の同心の下役として十手を持つ髪結床もいた。

◆元文(1736~1740)年間
文金風の髷、流行。女髷の文金島田、のちの文金高島田に。
舞子の花簪、行われはじめる。

元文元年(1736) 文字金銀(文金)の鋳造、使用はじまる。

◆寛保(1741~1743)◆延享(1744~1747)◆寛延(1748~1750)年間
花簪、一般女性にも普及

寛保2年(1742) 堺町に女髪結、活躍とあり(『百々噺』)。
延享元年(1744) 金銀細工の笄・櫛の禁止するも寛延には復活。
寛延元年(1748) 「けいせい紅葉軍」(中村粂太郎座)に女髪結が登場、これ以前に女髪結はすでに活躍していた。

このころ、日本の推計人口約3000万人、江戸の人口約100万人に。以降、大きな変動はない。

◆宝暦(1751~1763)年間
鬢さし使われ、灯籠鬢が京祇園におこり、上方で流行る。
勝山髷、流行すたる。
源内櫛(平賀源内)流行る。
洒落本出版される。

◆明和(1764~1771)年間
櫛、大型化する。遊女に3枚櫛
上方で女髪結はじまる。
髷かけに絹ちりめんなど使用(『近世女風俗考』)

明和4年(1767) 田沼意次、側用人に。田沼時代(~1786)

◆安永(1772~1780)年間
灯籠鬢、江戸で流行しはじめる。
上方の女髪結、繁盛。
安永の末ごろ、山下金作という、上方の歌舞伎役者(女形)付きの床山が深川芸者の髪を結ったのをきっかけに、江戸で女髪結が誕生(『蜘蛛糸巻』)、という史料もある。

安永7年 江戸に女髪結、現る(『嬉遊笑覧』)
安永8年 『当世かもじ雛形』出版。

◆天明(1781~1788)年間
鬢さし、大流行。
勝山髷から丸髷に。
深川遊里、全盛。

天明2年(1782) 光格天皇即位。公家・有職故実の復興図る。
天明7年(1787) 松平定信老中に。寛政の改革(~1793)

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◆江戸時代後期
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◆寛政(1789~1800)◆享和(1801~1803)年間
鬢さし、江戸で廃れる。のち上方で廃れる。
両天簪、江戸で廃れ、のち上方で廃れる。
女髷、大型化。
深川遊里で、おとしばらげ、ぐるりおとし、など流行。

寛政7年 女髪結禁止の町触れ。

◆文化(1804~1817)年間
女髷、大型から小型化。
タボさし復活。
箱鬢廃れ、鍋づる鬢さし流行る。

文化10年(1813)~ 『浮世床』(式亭三馬)。

◆文政(1818~1829)年間
島田髷、つぶし島田全盛。

◆天保(1830~1843)年間
島田髷、水平の髷流行る。

天保11年(1840) 女髪結の禁止の町触れ。
天保12年(1841) 天保の改革。女髪結の禁令。株仲間の禁止。これにともない髪結床、急増。
天保13年(1842) 女髪結の遊郭外での営業禁止。歌舞伎役者、女浄瑠璃、寄席、遊女など規制を受ける。

◆弘化(1844~1847)◆嘉永(1848~1853)
髷尻の高い島田髷、流行る。丸髷は蔵前風(のみしまげ)流行る(『近世風俗志』)
銀杏くずし、遊女らに流行る。

弘化4年(1847) 「女髪結之儀」の触書で女髪結を指導。
嘉永6年(1853) 女髪結、江戸市中に1400余人(『武江年表』)。ペリー浦賀に来航。女髪結、遊女ら捕縛される。

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◆幕末期
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◆安政(1854~1859)◆万延(1860)◆文久(1861~1864)◆慶応(1865~1867)年間
島田髷の髷尻、下がる。
島田髷、丸髷、いなせ流が流行る。

万延元年(1860) 桜田門外の変。
慶応3年(1867) 大政奉還。江戸の町方人口53万8463人(男女比はほぼ同数に)。

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◆明治
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断髪令で男子の髪型、洋風に。女子は幕末からの日本髪、続く。
西洋理髪所、徐々に増える。髷の男子、明治天皇の断髪以降減り、明治後期にはほぼ姿消す。
女髪結師は明治中頃は「おぐしあげ」の看板を出す者も現れるが、出張で髪結する者が多数。
中頃に日本髪の非合理性、非衛生さを指摘し、婦人束髪会が発足。

明治元年(1868) 戊辰戦争。
明治2年 小倉虎吉、横浜居留地(支邦屋敷、現横浜中華街)で開業、12年に神奈川県庁より理髪営業の鑑札を受ける。当時、小倉はじめ原徳之助、松本貞吉、竹原五郎吉の4人は外国船に出入りし、西洋理髪を修得、彼らは西洋理髪の祖とされる。
明治3年(1870) 日本の人口3279万人。東京府67万4269人、大阪府42万7395人、京都府37万3688人(明治政府の調査)
明治4年 断髪令。
明治5年 女子の断髪禁止令。
明治6年 明治天皇、断髪。
明治15年 鹿鳴館、落成。
明治18年 婦人束髪会発足。発起人は渡辺鼎、石川暎作。日本髪を批判し、洋式束髪を推進。理髪師・鳥海定吉、バリカン使用。バリカンは明治16年に仏公使・長田桂太郎が持ち帰る。
明治27年~ 日露戦争。洋風化を排し、日本髪、再評価される。
明治44年 東京市の女髪結師の数約3万人。うち正規に鑑札を受け、府税を払う者2940人ほど(『明治変態風俗史』)。

◆大正
後期、鏝によるウエーブヘア流行る。

大正3年(1914)~ 第一次世界大戦。参戦欧州国の女性、動員にともない簡便なショートヘア流行る。数年遅れて日本でも流行(モガ)。

◆昭和
昭和4年 電パツ(電気パーマネント)、横浜、神戸ではじまる。
昭和10年 電パツ、全国的に普及し、パーマネント・ウエーブ流行る。

昭和12年(1937) 日華事変。
昭和13年(1938) 第二次世界大戦。国家総動員法。

昭和14年(1939) 国民精神総動員聯盟の委員会が、パーマネント・ウエーブや化粧、華美な服飾、さらに男子学生の長髪の禁止を提案。
昭和16年(1941) ハワイ真珠湾攻撃。太平洋戦争。
昭和17年(1942) 理髪業界団体、大日本理容協会が翼賛会髪型提案。
昭和20年(1945) ポツダム宣言、受諾。敗戦。